吃音:専門家の軌跡ー猛省から信頼へ 食物アレルギー:新たな異変のなかで

MAILMAGAZINE
メルマガ情報

2023.10.13

吃音:専門家の軌跡ー猛省から信頼へ 食物アレルギー:新たな異変のなかで

----TOPIC----------------------------------------------------------------------------------------
■   連載:吃音:専門家の軌跡 ー 猛省から信頼へ(最終回)
■□  連載:食物アレルギー:新たな異変のなかで
--------------------------------------------------------------------------------------------------


───────────────────────────────────…‥・  
■ 連載:吃音のある子どもの自己理解を育てていくための協働
             第4回 専門家の軌跡ー猛省から信頼へ(最終回)
───────────────────────────────────…‥
〇専門家の役割
専門家の役割とはいったい何でしょうか。対人援助職としての専門家であるとしたら、何を重視するでしょうか。専門家自身の考えや立場によって違いはあるでしょうし、こうあるべきだとは一概に言えません。ましてや、それらについて言及できる能力を私は持ち合わせていません。

専門家のひとりとしてこれまでの臨床をふり返ってみたとき、数多くの反省と試行錯誤の連続であったことが思い起こされます。個人の経験談に過ぎませんが、今だから気づかされることが幾つもあります。この場をお借りして記してみます。

私は、病院勤務時代、疾患のある乳幼児をはじめ発達に何らかの遅れや課題がある子ども達と数多く出会ってきました。吃音のある子どもは全体の2%程度でしたが、1年で初めて出会う吃音のある子ども達は50人以上、多い時には90人の子ども達と出会いました。加えて再診の子ども達とも時間を共にしてきました。これまで、幼児から青年の人まで1000人以上の吃音のある人とお会いすることができました。

病院勤務を始めた頃は、先輩の臨床を学びながら、少しずつ吃音のある子どもを担当させてもらえるようになりました。先輩の臨床方法を見よう見まねでなんとか格好をつけようと必死でした。『ことばのテスト絵本』と言われる検査用の絵本を用いて、吃音のある子どもに絵を指さしてもらったり物品を呼称してもらったりします。当時は、吃音に関して特段何かを子どもに尋ねることはせず、何かを伝えることもしていませんでした。

保護者との面談を主としていた吃音臨床は、先輩から受け継いだひとつのスタイルでした。初診で吃音のある子どもと会って、それ以降は保護者と定期的にお会いします。前回からの暮らしの経過をお訊きし、保護者からの質問や心配事に答えていきます。ところどころ吃音に関する解説は入りますが、子育てや家庭環境の話題が中心でした。先輩のやり方を必死で真似てはいましたが、浅い知識の上での付け焼刃ですから、保護者からの質問や相談事に対して、(こんな答えではダメだろう)と思えるような返答しかできていない自身に悶々としながら続けていました。

(吃音の臨床は難しい)(専門家によって吃音の手法は様々で、どれが最も効果的なのか定かではない)(読まないといけない論文や本が多すぎて時間が取れない)(手ごたえが感じられない)といった理屈を並べながら吃音臨床の学びから次第に遠ざかるようになっていきました。吃音相談の予約が入ると憂鬱な気持ちになっていたことを覚えています。

その一方で、「哺乳(ほにゅう)」や「摂食嚥下(せっしょくえんげ)」といった、飲んだり食べたりする機能を高めていくための支援や、ことばの発達・発音の未熟な子どもへの訓練などについては力量を着実に積み上げていくことができ、3年が経過した頃にはかなり自信をもって子どもや保護者とお会いできるようになりました。人への関心が乏しい子どもと気持ちが通い合える遊びを見つけ出したり、それらを保護者と一緒に発展していけたり、子どもの現状を可能な限り分かりやすく解説することができたり、課題をアレンジしながら提案できたりと、個々の保護者に合わせた提案や解説のことばの選び方に、手ごたえを感じられるようになりました。その後も、子どもの現状を分かりやすく解説できる力量を磨くために何度も練習を重ねました。その甲斐があって、園や学校の先生から、ご家族から、「お話を聞かせたいので」といった理由で解説を録音したいという申し出がちらほら出始めるようになりました。

そうした時期だっただけに、吃音臨床の学びからはますます遠ざかるようになり、それでも吃音のある子どもと保護者にお会いし続けていました。

転機となるエピソードがその後に訪れます。今も鮮明に記憶に残っている出来事です。

病院勤務を始めて3年目の半ばが過ぎた頃のある日の夕方でした。言語科の前の廊下を掃除していました。言語科の隣は神経科で、遅くまで診療を待っている人が何人かいました。薄暗い廊下の座席に点々と座っていました。奥にあるお手洗いに行こうと神経科の前を通りかかった際に、以前、担当をしていた吃音のある子どものお母様が座っているのを発見しました。

「神経科を受診されておられるんですね」
「そうなんです。以前は大変お世話になりました」

そんな会話が始まりました。「いま息子がちょっと大変で…」と下向きかげんにポツリとお母様が話されました。廊下ですので状況を詳しく尋ねることは避け、「もしよろしければまた言語科も受診してみられませんか」とお誘いしました。そうすると、「ありがとうございます。あの…、申し上げにくいんですけども…、言語科からの帰り、私、とてもしんどくなってしまうんです…、すみません…」と告げられました。

ようやく臨床に自信が持てるようになってきていた時期でした。それなのに、時間とお金を使ってわざわざ来てくださっている人がこんな苦しい目に合っている、いや、苦しめているのは自分であること。これまで一体全体何をしてきたのか、と金槌で頭を思いっきり殴られたような衝撃を受けました。自分はいったい何をしてきたのか、何をいい気になっているのか、その自問に何も答えられずにいました。

2週間後の夕方、神経科の待合で別のお母様とお会いしました。かつて担当をしていた吃音のある子どものお母様でした。私は、自信なさげに「よろしければまた言語科も受診してみてください」と恐る恐るお伝えしました。すると、「ありがとうございます。先生には大変お世話になりました。それなのに申し訳ないのですが、言語科を受診して帰ると、私…、とてもしんどくなってしまうんです…、本当にすみません…」と恐縮しながら伝えてくださいました。2度目の衝撃でした。

2週間という短いの期間で2度も頭を強打される出来事に見舞われました。いい加減な知識と、何も学ぼうとしてこず、淡々と続けてきた私の吃音臨床を丸裸にされたようでした。お二人のお母様は、わが子が不登校気味になってしまっていることに悩まれ、そんなわが子のことを心配し、さらに、ご自身の養育に罪悪感情を抱いておられました。そうしたお母様に何らお応えすることもせずに、今から思えば全く無用な情報や知識を伝えていただけでした。当時、(この問いに何と返答すれば良いのか)(どう助言すれば納得してもらえるか)と、そんなことばかりが頭の中を巡り、お母様の話をほとんど聴いていませんでした。そうした態度は伝わってしまうのだと思います。偽善者としての私がガラガラと崩れ落ちていくようでした。

浅い理解に留まったまま何の吟味もせずに借り物の情報や知識を並べて伝えているだけの私の吃音臨床は、中身の全くない体面を保とうとするだけのものでした。そんな不誠実な態度に自身で嫌気がさし、今の仕事を辞めるべきではないかと悩みました。何人かの先輩にも相談しました。そうして、(きっぱりと辞めて新たな道を模索するか、吃音を最初から徹底的に学び直し吃音の専門家になるか、いずれかの道しかない)と自身に迫りました。悩んだ挙句の決断は今も鮮明に覚えています。(この1年で徹底的に吃音を学び、それでものにならなかったらスパッと辞める)と決心しました。

それから、吃音のセルフヘルプグループの例会に参加するようになり、専門書の熟読、学術集会で吃音の専門家の先生方から学び、ご助言をいただきました。学会発表や自主シンポジウムの企画もしました。吃音に関する集まりにはできる限り参加しました。1年が過ぎる頃には淡い手ごたえのようなものを感じ始めました。「吃音のある子どもの親の座談会」と称して保護者同士が出会って話せる場を主宰しました。吃音のある子どもや保護者から沢山のことを教えていただけるようになりました。子どもや保護者に真摯に耳を傾けることができるようにもなりました。そして、これからどうしていけば良いかをご一緒に考えさせてもらえました。こうして取り組んできた私の吃音臨床は、吃音を深く学べば学ぶほど、これまでの言語臨床、支援について見直す機会になり、その後、大きく変容していきました。

自分軸に立った臨床に満足していた私の言語臨床、支援は、軸足を子どもや保護者に置き換え、相手軸に立った臨床、支援へと変わっていきました。(何のためにこのことを今伝えるのか)(どうしてこれをする必要があるのか)(誰にとってそれは良いことなのか)といった自問とともに子どもや保護者にも問いかけをしながら、今後の手立てを一緒に作り出そうと試行錯誤していくことに喜びを感じるようになりました。

子どもが発することばの背景にある意味や心情を想像してみることや、保護者の話から思いや考えを想像しながら聴こうとすることで大切な気づきや発見がもたらされます。これまでとは質の異なる手ごたえを実感できるようになりました。

吃音というひとつの分野を徹底的に学び深めてきたことの副産物として、これまで全く見えていなかったものの存在や枠組みが浮か上がってきました。広く浅くの知識によるオールマイティな対応は、一見うまく対応できていそうですが、多様な事象を突き付けられた際には太刀打ちはできません。まだまだ十分ではない経験知ではありますが、子どもや保護者と一緒に作り出そうとする世界に今もワクワクします。こうした世界観を「信頼」ということばで表すことができるかもしれません。信頼とは、専門家と子ども、保護者との相互の信頼を指します。その信頼は、お互いの「寄り添い」によって作られるものではないかと思います。

〇寄り添いとはなんでしょうか。
信頼できる専門的知識や経験知を持ち、その中から必要と思えるものを選び出し加工しながら分かりやすく提供していくこと、それは専門家としての専門性に根ざした職務です。これができていれば十分でしょうか。信頼できる知識や経験知は、専門家としての信頼のひとつとなるでしょうし、丁寧で分かりやすく解説ができるように技を磨いていくことも専門家として研鑽していくべき事柄です。

人が抱える悩みや問題事項は、専門的知識や経験知の提供によって解決できることが意外と多くはありません。現在に至る心境は複雑であり、それは憤りや不安、受け入れ難い経験等、ことばで上手く言い表せない心情も多々あります。私は、助言や指導の前にその人に“とことんなってみて”今の思いを味わおうとします、できる限り分かろうと努力することを専門家の態度の基盤として据えたいと思っています。言い換えますと、どれだけ深く人の声を聴こうと努力するか、ことばになりきれていない何かにどう耳を傾けていこうとするのかです。そうした専門家の態度が相手に伝わったとき、専門的知識や経験知の提供から得られるものとは全く異なる信頼が生まれてくるように思うのです。言い換えればそれが寄り添いではないのかと。

心情や考えを分かろうと努力する行為は、話を整理しまとめることではありません。もちろん、「ええ、はい、そうですね」と、話をただ聞くことでもありません。伝えてもらったことを専門家はどのように理解したのか、それは保護者の意向に合っているのか、ずれてはいないか、それらを問いによって丁寧に尋ね、保護者に確認をしてもらうこと、そのくり返しが保護者の心情に近づく方法だと思います。ことばに上手く言い表せない心情を専門家の問いかけによって自ら確かめ、発見していくこともできます。その結果、方向性が見出され、大切な答えが見つかることがあります。根幹にあるのが相手の話を「傾聴」する態度です。安易な指導・助言によってではなく、人生にかかわる重大な判断や選択は、その人自身が答えを探し出して納得しながら進んでいくものです。自ら答えを見つけ出せるために、納得できる歩みができるために、信頼と敬意を持って専門家が傍にいること、それが寄り添いによって生み出されてくる信頼ではないかと思います。

相手のことをなんとか分かろうと、想像をかき立てることでやんわりと見えてくる相手が見ているかもしれない景色、それらを味わいながら不明な箇所を相手に問いながら景色を鮮明にしていきます。両者が見ている景色は一緒ではありませんが、違いが新たな発見へとつながることもあります。

現在、専門家としての対人援助力の向上、職場での対話力の向上、親子の対話を円滑にできるための傾聴力を、体得していただくための「傾聴セミナー」に力を注いでいます。演習によって体得することができる貴重な学びの場となっています。ご参加してくださった方々の感想をブログに掲載しています。ご覧いただければ幸いです。

「傾聴」による気づきと学びのセミナー

本物の深い傾聴の体験を重ねていくことは人生を豊かにしていくためのひとつだと思います。そして、共感し合える仲間が大勢できていくことは私にとっての大きな財産です。

現時点での私の考えや思いを余すことなく記せる機会に恵まれました。この場をお借りして心より御礼申し上げます。

◆堅田利明(かただとしあき)
関西外国語大学短期大学部 准教授/言語聴覚士/教育学博士
京都教育大学・言語聴覚士専門学校の非常勤講師を兼任。
大阪市立小児保健センター言語科を経て大阪市立総合医療センター小児言語科で25年間、哺乳・摂食機能、言語・聴覚・コミュニケーションで来院される本人やご家族、きょうだいへの支援に携わる。その他、神戸の肢体不自由児支援学校2校での摂食指導スーパーバイザーや大阪市教育委員会特別支援教育専門家チームアドバイザーを務める。
主な著書:『こどもの吃音症状を悪化させないためにできること-具体的な支援の実践例と解説』海風社,2022、『特別支援を難しく考えないためにー特別支援が子ども達の心に浸透するように』 海風社, 2011、『キラキラ どもる子どものものがたり』 海風社, 2007、『子どもがどもっていると感じたら-吃音の正しい理解と家族支援のために』(共著)大月書店, 2004.


───────────────────────────────────…‥・  
■ 連載:食物アレルギーとわたし
             第4回 新たな異変のなかで
───────────────────────────────────…‥
12.見守り
2004年、娘も二年生。新しいクラス、新しい担任の先生と改たな1年のスタートでした。
一年生の1年間でいろいろなことが変わってきていたので、改めて各家庭に現状を知らせる手紙を作り配っていただきました。担任の先生、栄養士の先生、養護の先生に集まっていただき対応について改めて話し合いました。変わったのが担任の先生だけでしたので話し合いはスムーズに進みました。そして、一年生のとき同様、ピーナッツのメニューがある日は私が一緒に食べることに同意して下さいました。その他の食べられないメニューは以前程多くないのでお弁当を持たせることにしました。

この1年は何事もなく過ぎて行きました。
そして娘三年生。新しいクラスにはなりましたが、2クラスしかないので知っている顔ばかり、その上担任の先生も同じ、症状の変化もないということで、手紙も出さず話し合いの場も持たず連絡帳での確認で済ませました。
相変わらずピーナッツメニューの日は見守りながら一緒に食べ、そうじが教室、流しであれば代えてもらい、一緒にそうじをしながら見守りを続け、大丈夫なのを確認してから自宅に戻り家で待機をするという対応を続けていました。入学してから、いいえ入園してから検査以外で一度もアナフィラキシーを起こすこともなく。

怖いと思うことはよくありました。例えば器の片付け。みんなの使った器にはピーナッツメニューが付いているので、とても行儀悪いのは承知で他の器を触らないようポトッと落とす事を教えました。普段しつけに厳しい私にはつらい選択でした。娘は給食が大好きでたくさん食べる子ですが、ピーナッツメニューのある日はおかわりも危険を伴なうので禁止しました。初めに少し多めにもらうしかありません。食べながらのおしゃべりにも注意が必要ですが、慣れてくると本人も周りも大丈夫な気がするのか、見ていて怖いと思うことも時折あり、その度私が仇にならないよう配慮しながら止めました。周囲で食べている子もフォローしてくれました。そうじも初めは教室の時だけ代わってもらいましたが、廊下そうじ担当で流しをそうじし始めた時、そこにピーナッツを発見。私が気づいたので大事に至らずに済みましたが、それから流しも代わってもらうようにお願いしました。考えてみれば食べた後すぐ歯磨きタイムがあるので流しにピーナッツがあってもおかしくなかったのです。守るというのは本当に難しいと思ったものです。

13.私自身の病気
2005年、娘三年生の秋、私が体調を崩す日々が続きました。高熱が下がらないのです。この4年程前、まだ娘が保育園に入る前から身体の変調はありましたが、年々それが悪化しており、この年には激しい頭痛、激しい疲れ、顔面痙攣、ろれつが回らない等の症状まで頻繁に現われていたのです。その後熱は下がりましたが、シャンプーをする度に激痛に見舞われるようになり、私は重い腰を上げ病院に行きました。といっても子供達の病院にはあちこち通ってはいたのですが……。

MRIの検査結果で「脳に腫瘍があります。それもかなり大きいです。検査をしてみないと良性か悪性かわかりませんが、視神経を圧迫しているのですぐ手術が必要だと思われます。大きな病院を紹介しますので、4日後予約が取れましたので行ってください」と突然医師に言われたのです。
自分の病気のショックは言うまでもなく大きかったですが、同時に頭を過ぎったのは子供達のことでした。特に病気を持つ子のことは今まで必死に守ってきただけに気がかりでした。

翌日の連絡帳で娘の先生に連絡を入れました。直接話せば良かったのかもしれませんが、きちんと話せる自信も、また時間もありませんでした。先生にあまりショックを与えすぎないよう下書きを書き、それを清書したのですが、涙が止まらなかったのをよく覚えています。私はこの時「死」を間近かに感じていたのです。
子供達はこの年、高校一年生、中学三年生、小学六年生、小学三年生、保育園年長でした。各々の先生に子供達のことをお願いし、家のことは実家と2人の義姉にフォローをお願いし、子供達がわかるようにと家の片付けをし……時間はあっという間に過ぎていきました。

紹介された病院の脳外科で、3cm程の下垂体腺腫で視神経も圧迫され脳に食い込んでいること、その大きさから2回の手術が必要でまず経鼻手術が必要であろうことを告げられ、眼科受診と血液検査をすることになりました。その6日後造影剤を使った頭部MRI検査、眼科検査を受け翌日再び脳外科の先生のもとを訪れました。目の前に写し出されたその検査結果は早い時期に手術が必要なことを語っていました。入院までに残された時間は10日。
私の入院中にピーナッツメニューも入っていました。直前にメニューを変えることなどできません。頭を抱える私に、検査の時も検査結果を聞く時も主人の代わりに付いてきてくれた親友が「私が一緒に給食を食べながら見守ってあげる」と言ってくれたのです。彼女には子ども会の役員を一緒にやっていた時も娘の食べ物には配慮してもらっていました。私はその言葉に甘えさせてもらうことにしました。ずっと見守り続けてきた私が、初めて完全に手を放すことを決断した瞬間でした。私に万が一のことがあった時、娘が私以外の人を頼っていけれるようにとの願いも込めて……。

娘も私も無事でした。見守れなくなった私の代わりに見守って下さった多くの方々がそこにみえたのです。
病気はつらく、私は退院後の数カ月体調の思わしくない日が続き、ようやく戻りかけた頃、次の宣告を受けました。迷いに迷ったあげく自分である放射線治療を受けました。MRIの映像では今も大きな腫瘍が脳の一部に食い込んだまま病気と付き合う日々が続いています。
私はこの病気を機に、娘の見守り方を改めました。娘の将来を考え、彼女が自分で自分を守っていけられるよう自立の助けをすることが大切だと気づいたのです。

14.再びアナフィラキシー
乳成分の入ったメニューについては、入院前の短期間に代替品を作ることを止め様子をみました。私の代わりに作ってもらうことが難しいと判断したからです。量さえ減らせば大丈夫なことはわかっていたので、本人が納得できるかが問題でした。娘の自覚と協力により入院前に可能なことが確認されました。
メニューの確認も本人にしてもらうようにしました。それまで受け身的だった娘が少しずつ変わっているのがわかりました。もちろん急に一人では難しいですが、栄養士の先生がマーカーして下さるのを頼りにやっていこうとする姿勢が大切だと思ったのです。
娘はそれまでの受け身的な姿勢から一変、私の負担を減らすため、そして自分で自分を守るため前向きに努力してくれました。我慢したこともたくさんあったと思います。それでも文句も言わずがんばっていました。私が動き出せれるようになるまでは……。

私がしんどい身体をおして動き出した時、一気にそれは変わりました。小学校三年生の子にとっては自然なことで、よくあそこまで我慢できたねと誉めてやりたい気持ちでいっぱいでした。
ただこの時の私は、肉体的にも精神的にもいっぱいいっぱいでそれを受け止めるだけで精一杯でした。3人の子の卒業・卒園、義父の三回忌、義母の十七回忌の法要の準備、自分の病気に次の手術が必要だと告げられたこと等々、そして体調……限界でした。

そんな中、アナフィラキシーが起こったのです。春休み中の出来事でした。
食べたのは黒ごまクリームでした。原材料の中にはっきりと落花生油と記されているのを、症状が現われてから気づいたのです。完全なチェックミスでした。
実はこの年、娘はアナフィラキシーを多発しています。体調が思わしくなかった2005年、2006年は日記も空欄が多く、詳しい日時はわかりません。自宅で私がいたにも関わらず起こしたものが黒ごまクリームの件も含め3件 、学校の給食で1件、学校レクで1件、計5件もありました。いずれも3歳、4歳の時のあの激しい症状までには至りませんでしたが、繰り返す度ひどくなるとも言われているので要注意です。

その時食べた物をお話ししましょう。まず五平餅と味付けホルモンです。いずれも味噌の中にピーナッツの成分が含まれていることがあるそうで、必ず確認が必要なことを知りました。黒ごまクリームも全てに入っている訳ではありませんが、種類によっては入っているものがあるので確認が必要です。給食はいろいろ調べていただきましたが、未だに原因はわかっていません。この日の調理段階での混入は考えられませんが、加工段階での混入はあったのかもしれません。しかし原因を突き止めるのは難しいです。学校レクでの一件はカップラーメンが原因でした。カップラーメンの一部にピーナッツの表示があるのは知っていたのですが、娘には大丈夫な物を持たせていたので安心していました。本人にも先生にもきちんとそれを伝えていれば守れたのでしょうが伝えていなかったために起こった事故でした。クラスメイトが娘の異変に気づき先生に知らせてくれたことにより早めの対処ができました。

私にとっては軽い症状に思えるこの学校で起こった2回のアナフィラキシーも、初めて目にされた先生にとっては「怖い」と思われるものだったようです。処方されていたアナフィラキシー対応の飲み薬を飲ませ、救急に走ったのは言うまでもありません。
自分の体調から不安は大きくなるばかりでした。

15.エピペン
危機感を抱いた私は再び専門医を訪れることにしたのです。主人が連れて行ってくれました。
私の病気のこと、今までの経緯なども話し、どう守って行けば良いのか相談にのってもらいました。
先生からはアナフィラキシーの現状なども教えていただき、緊急の場合の対応としてエピペンを持ったらどうかとの提案がありました。
エピペンとはアナフィラキシーを起こした時に症状を緩和するための自己注射で、2005年3月、子どもを含む食物アレルギー患者に対しても本人と家族に限定して適用承認されたものです。当時私は新聞に載っていた詳しい記事を見付け読んでいたので、その存在は知っていました。エピペンの処方には別の日に行なわれる使用説明を聞くことが必要とのことでした。主人と相談し日程を確認した後、改めて申し込みました。

エピペンの処方の日、診察室とは違う部屋で何人か一緒に説明を聞きました。私は娘をその席に同伴させ一緒に話を聞かせました。小学四年生の子が一人で判断し、一人でその注射を症状が出ている時にするのは無理があるのはわかっていました。それでも自分の命に関わる大切な治療法をきちんとわかって欲しかったのです。使い方の練習もその場でしました。どう持つと危険かも教えて下さったので連れて行って良かったです。ただ先生からは、本人が一人で判断して打てれるようになるのは、やはり中学生からだとのお話がありました。
この時初めてアナフィラキシーが30分以内にエピペンなり大きな病院での処置なりの対処をされれば、死に至ることはないということを知ったのです。エピペンはあくまでも補助治療剤で、必ず医療機関の受診が必要であると補足されていたこともお伝えしておきます。
できれば使わずに済みますようにと願いながらも、このエピペンの存在は、万が一の時の不安を少し軽くしてくれたのは事実です。

最後に一人一人呼ばれて処方箋を受け取りました。その時先生からは、アナフィラキシーの患者さんで外来を訪れるのはピーナッツが原因の方が多いこと、そしてその中でも娘が重症であることを告げられました。少し複雑な思いの私でしたが、それを憂いても仕方ありません。
アレルゲンは違っても、同じ悩みを抱え同じように子供を守ろうと努力を続けてみえるお母さん方と話せたことは、私に元気と勇気を与えてくれました。

16.守るために
エピペンを持つようになって間もなく半年が過ぎようとしています。この間アナフィラキシーは一度も起こしていません。
娘は無事五年生になれました。この春私は例年のごとく新しい担任の先生と栄養士の先生と養護の先生に集まっていただき、エピペンのことも含め話させていただきました。そして新しい手紙を作りました。完全な手紙とは言えませんが、症状が出た時気づいてもらえるように、何が危険なのかわかってもらえるように心を込めて作りました。

私は病気がわかってからいろいろ考えました。彼女が自立できるよう、自分で自分の生命を守っていけれるようにするには、私は何をしておいてやればいいのだろう……。思いはいつもそこに到り着きます。他の4人の子のことを考えていない訳ではありません。みんな同じ様に心配なのです。ただ急変するあの恐しい症状を起こす娘には、単なる本人の自立だけではどうにもならない怖さもあるのです。

一つの案として浮かんできたのが本です。私は今まで数え切れない程、いろいろな場所でいろいろな方に、娘の症状をわかってもらうために話し続けてきました。同じことを何度も何度も。それは楽なことではありませんでした。それを手助けしてくれる本を書きたいと思ったのです。それがこれです。

2007年4月、公立小・中・高校の児童生徒のアレルギー疾患に関する初の全国調査の結果が公表されました。ニュースでも新聞でも取り上げられていましたが、そこに「生命の危険にも直結するアナフィラキシーの状況が判明したのも画期的だ」とありました。「アナフィラキシー」という言葉さえ知らなかった人は多いと思います。まずその存在を知ってもらうこと、知識を持ってもらい協力して下さる方を増やすことは、急変するその症状から生命を守るため大切なことだと思うのです。決して悪用されないことを願いながら……。

連載第2回からここまで2007年5月に書き上げたエッセイをお届けしてきました。
いよいよ次回は最終回、「その後、そしていま思うこと」と題してお届けします。
また、お会いできますように……。

◆栗田洋子(くりたようこ)
食アレスマイルネット(愛知県岡崎市子育て支援団体・岡崎市市民活動団体)代表 絵本専門士
絵本を持っての食物アレルギー啓発活動に加え、絵本や絵本の読み聞かせの大切さを伝える活動にも力を注ぎ続けている。
絵本『ともくんのほいくえん』明元舎、『ピーナッツアレルギーのさあちゃん』ポプラ社
2017年度 筑波大学同窓会茗渓会 茗渓会賞を受賞
第75回 厚生労働省 保健文化賞を受賞(2023年)


■□ あとがき ■□--------------------------
今秋残り5箇所での2種類のリアルセミナーを開催します。
 

こども発達支援アップデートセミナー 札幌、名古屋、熊本

次回メルマガは通常より1週間先、文化の日の前日11月2日(木)とさせていただきます。


▼YouTube動画 レデックス チャンネル ▼

メルマガ登録はこちら

本文からさがす

テーマからさがす

全ての記事を表示する

執筆者及び専門家

©LEDEX Corporation All Rights Reserved.